「推し活は誰ですか?」って聞かれてもなぁ・・・

「あんたの推し誰なん?」

まいど! ちょっとええか? 最近な、ホンマによう聞かれるようになったんや。「あんたの推し、誰なん?」て。もう、なんなんやろな、この世の中。

どこ行っても、誰に会うても、まるで合言葉みたいに聞かれんねん。しかも、みんなキラキラした目で聞いてきよるから、こっちが「え、推し? おらへんけど?」って言うたら、まるで宇宙人でも見るような顔すんねん。

そんでな、しまいには「え? 推しおらんとか、人生つまらんのちゃうん?」て、追い打ち

かけてくる輩もおるんや。

ホンマ、その時はな、「つまらんかどうかは、ワシが決めんねん! 余計なお世話じゃ、ボケ!」って、叫びそうになるのを、グッとこらえてるねん。もう、こちとら平静を装うのが、最近の特技になりそうなくらいや。

推しがいないと人生つまらん?

ホンマにな、昔はこんなんじゃなかったんや。好きなもんは好き、嫌いなもんは嫌い、それだけで十分やった。

例えば、野球は阪神が好き、アイドルは聖子ちゃんが好き、マンガは『ONE PIECE』が好き、それで話は終わってた。そこに、特別な理由とか、深い背景とか、そんなもんを語る必要はなかったんや。

ところが今は、「推しを持つ」こと自体が義務みたいになっとる。しかも、ただ持ってるだけじゃアカンねん。

「なんでその推しなん?」「どこがええねん?」「その推しのおかげで、あんたの人生はどう変わったん?」みたいに、熱く語らんとあかん空気が漂ってる。

そら、あんた、疲れるやろ? もう、なんて言うたらええか分からんから、とりあえず誰か適当な芸能人でも推しにしといたろか、なんて考えたこともあるで。

けど、それって、なんかちゃうやろ? 無理やり好きになるなんて、ワシの性に合わん。ホンマに好きなもんでもないのに、「推しです!」って言うて、無理やり笑顔で語るなんて、ワシにはできひん。

 

SNSが生んだ “推し活” の幻想

それにしても、なんでこうなったんやろな。思うに、SNSとかで、みんなが自分の「推し」について、ええことばっかり書くからやろか。

誰かの「推し活」のキラキラした日常を眺めてたら、「ああ、推しを持てば、こんなに人生が豊かになるんか」って、みんな思い込んでしまうんちゃうか。

せやけどな、そんなもん、表向きの話や。裏では、金も時間もかかって、ホンマは大変なこともいっぱいあるはずや。

そんなもん知らんと、安易に「推しを持て」なんて言うてくるんやから、ワシからしたら、「ちょっと待って、お前、それホンマに言ってるんか?」って、ツッコみたくなるんや。

 

推しの意義は否定せえへんけどな

せやけどな、この「推し」っていう概念自体は、別に悪いもんやないのは分かってんねん。

何かに夢中になって、それを応援することで、人生が豊かになるっていうのは、確かに頷ける話や。例えば、推しが出てるテレビ番組を見たり、ライブに行ったり、グッズを集めたりする時間は、間違いなく楽しいやろ。

それに伴って、新しい友達ができたり、今まで知らんかった世界が広がったりするかもしれへん。

そう考えると、すべての瞬間に色を添えてくれる存在、人生を彩ってくれる存在っていうのは、それはそれで、ええもんやと思うねん。

 

押し付けられる“推し”はごめんやで

せやけどな、だからって、「推しは絶対必要だ!」って、誰かに押し付けられるのは、ホンマに勘弁してほしいんや。押し付けられた「推し」なんて、ワシにはいらんねん。他人が選んだもんじゃなくて、自分の心から好きやと思えるもん、それを見つけることが大事なんやろ?

ワシは、ワシの好きなもんを、ワシのペースで、ワシの気持ちだけで好きになれる。それで十分満たされるんちゃうかと思うねん。要するにな、無理に誰かに合わせる必要なんて、どこにもないってことや。

“推し活”ブームに乗れんワシの流儀

この「推し」ブームは、ワシみたいな斜に構えた人間には、ちょっとヒリヒリするもんがあるねん。みんなが熱狂してる中で、一人だけ「別に…」って顔してるんは、まるで波に乗れへん非国民みたいに思われるかもしれへん。

せやけどな、ワシはワシや。みんなと同じように熱狂できへんからって、ワシの人生がつまらんわけやない。むしろ、この流行と戦うのも、また一興やと思うんや。みんなが右向け右って言うてる時に、ワシは堂々と左向くねん。それがワシのスタイルや。

自分らしさを大事にしながら、何かを見つけていくのが、ホンマに大事なことやと思う今日この頃や。結局のところ、推しがいるかいないか、なんてのは、人生のごく一部の側面でしかないんや。

 

ワシの“推し”は日々の暮らしや

ワシがホンマに大事にしたいんは、日々の暮らしや。朝起きて、ベランダで深呼吸して、美味しいコーヒーを淹れる。通勤の電車の中から見える空のグラデーションにハッとする。

帰り道に、スーパーで旬の野菜を見つける。そういう、何気ない日常の中にこそ、ホンマの幸せが隠れてるんやと思うねん。

結局のところ、ワシにとっての「推し」って、誰か特定の人物やグループのことやないんや。それは、「日々の生活」そのものなんや。

推しがどうこうより、目の前にある一つ一つの出来事を大切に楽しむこと。これが、ワシにとってのホンマの「推し活」や。

なんしか、人生は自分だけのモンや。誰かが決めた流行に無理に合わせる必要も、他人の価値観に左右される必要もない。自分の心が「ええな」って感じたもんを、大切にする。それだけで、人生は十分に豊かになるはずや。

だからな、もしまた誰かに「推しは誰なん?」て聞かれたら、今度は胸を張ってこう言うてやろうと思うねん。「ワシの推しは、ワシの人生や!」ってな。そんで、ちょっとでも興味ありそうな顔されたら、その秘訣をたっぷり語ってやるんや。

ホンマ、ええかげん、人それぞれってことを、みんなに分かってほしいもんやで。

どうや、この話、ちょっとは共感できたか?それとも、やっぱり「あんた、推しおらへんからつまらんやん」ってまだ思ってるんとちゃうか? ええかげにしてんか!

 


2025/09/17

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